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昭和30年代生まれです😅 子供の頃は道路が未舗装でクルマが通るとホコリが舞い上がり、道路沿いには下水が流れており夕方お風呂の水を抜くと緑色(バスクリンの色)に下水が染まった覚えがある。また、秋になると七輪でサンマを焼く匂いが何処からともなくしてきて良き時代でした✨
その下水(側溝・ドブ)を ドブネズミ🐀💨が突っ走っていた。
ありましたねぇ、バスクリンw。オレンジの粉末なのに、湯に入れると鮮やかな緑になるのが不思議でした。
長生きしてね☺️
風呂の水が緑色なのは当時使われてた入浴剤(むとはっぷ)だと思います。26年生れです。
今ベランダで七輪でサンマ焼いたらソッコーで警察くるよ😓
昭和39年生まれです。懐かしいです。当時は社宅に住んでおり、敷地内に銭湯がありました。幼稚園で友達と遊んで、銭湯でもまた会って楽しかった思い出があります。
当時 道路は未舗装で水たまりがたくさんあった。冬は凍っていました。
今は清潔にはなったが、度が過ぎて潔癖になったとも言える。あの頃とどちらがいいのか………。
昭和30年代の懐かしい動画を有難う御座います。私は東京に住んでいましたが、当時は空襲で焼けたビルなどが撤去され復興が始まりました。急激に自動車が増え道交法の整備が追い付かなかったので銀座尾張町交差点など交通の要衝では、信号機が有っても警察官が台の上に立って交通整理をしていました。神風タクシーと言えば、ある魚屋さん自慢の優秀な東大生の御子息と慶応大医学部の留学をひかえていた優秀な研修医がひかれて亡くなり、新聞に大きく報道されて社会問題化されました。当時は電車の車両数が足りなかったので、冷房のない国電に通勤客を押し屋の大学生アルバイトが毎朝押し込んでいました。また都電が大きな交通機関で渋谷・池袋間の早朝便は国鉄山手線より速かったです。当時のベッドタウンと言えば世田谷区で渋谷と二子玉川園間を東急の路面電車が結んでいました。団地と言えば世田谷区に大蔵省、日銀、警察庁などの家電や家具付き官舎村が有りました。都バスが官舎村と省庁を結んでいました。戦後に旧陸海軍研究所から国鉄の鉄道技術研にうつった優秀なエンジニアたちが高速鉄道の将来性を見抜き30年に銀座で、東京・大阪3時間の可能性という講演会を開いたり、33年には南極観測船宗谷が分厚い氷で接近不可能と言われていた海岸に到達して、見事な昭和基地が日本古来の木組み技術で完成したりと、敗戦国と人種差別で欧米に見下されていた日本が一歩ずつ確実に前進を始めました。当時の大学入試は共通一次試験が無く、例えば東工大は数学、物理、化学、英語だけの試験でしたが、出題範囲は高校教育に限定されなかったので、特に博士号まで狙う生徒は小学生時代から登校無視で大学図書館に籠り、独学で大学の学問を学びました。また思考の基盤は日本語力なので、小学校入学前から岩波文庫の文学と哲学書を読みました。その中で私はファーブル昆虫記に出会い生物研究者を志し、高校時代に生命現象とは膨大な数の有機学反応の集積である、と悟ってまだ勃興期だった生命科学に進路変更しました。高校では第2外国語教育が有ったので半分くらい登校しました。当時の高校は土曜日の午後も6限目まで授業があり、長期休暇も短かったです。高校で古典にふれた事で、日本文化は分厚く欧米に負けない価値を持つが日本語環境の中でしか生きられない、日本人は豊かな文化を子孫に継承するためには、古典文化の習得には科学技術発展のための理系科目と同等の価値が有ると勉強しました。当時は優しさと親切などが若い女性のトレードマークでした。彼女達は価値観や道徳、常識などがしっかりしていて心が綺麗だったのでそれが外面に出て美人で魅力的な方が多かったです。何も無い時代だったので、人々は心や物を大切にしていました。また色々と生活に工夫をしていました。特に女性の言葉遣いが綺麗で、きちんと礼儀正しくものが言えました。若い女性は朝起きて、顔を洗うだけで綺麗なのが美人の基準でした。現代に至るまで多くの失敗の教訓や教育、社会の整備で良くなった面も多いですが、豊かになって物質主義や拝金主義がはびこり、人のため、日本社会のための努力など失われた良い面の方が大きいと感じます。
渋谷と二子玉川を結んでいたのは東急玉川線で、丸みを帯びたフルモノコック構造で床が低いため「イモムシ電車」と呼ばれたデハ200形電車が主力でした(1969年5月11日に廃止)。
@@pastelpureakgjze5791 お返事有難う御座います。世田谷区は自転車で回れたので多摩川線は利用した事が余りありません。当時の世田谷区には良い古書店が多く、思いがけない全集が手に入ったりして助かりました。二子玉川園近くにはカルメル会、ドミニコ会、サレジオ会などの修道院と教会が多く、クリスマスバザーでも思わぬ掘り出し物が有りました。
私は1963年生まれですが、1964年の東京オリンピック当時、近所のテレビのない家の人が、我が家にオリンピックを見に来ていたと私の母が言っていました。1964年当時でもテレビのない家庭があったんですね。
今の時代にアパートのベランダで七輪で魚焼いたらソッコーで警察がくる時代だよ😓
押し売りは昔のサザエさんでしょっちゅう出てたw
大雑把に世の中というか人間そのものが時が経つにつれて良くなってゆくのなら……今を生きる私たちを後世の方々から見れば何とも愚かで野蛮に思えるでしょうなあトホホ……。
昭和31年生まれの母は近所のお巡りさんが夜にパトカーで自宅によく遊びに来て普通に制服のまま酒飲んでw弾丸を抜いた拳銃を当時5歳の母に持たせてあげたりめちゃくちゃだったwらしい で飲酒運転で派出所に戻るのw
『天才バカボン』の 目ん玉つながりのお巡りさん並ですね。
今の時代にそんなことをすればその警察官は、ただでは済みませんね!
@@MrSpringman73 弾1発なくしただけで新聞記事になる国。
ヘルメット無しでバイクいたね。今の自転車にヘルメットの婆さんみると和むわ😊
昭和30年代の電車は自動ドアがほぼ普通になっていたので、ぶら下がって乗車するのは客車列車ですね。
『和田岬線』なんか 客車列車の最後期の平成前期の頃でもまだやってましたよ。
客車のドアが自動になったのは、1969年に万博対策として登場した12系一般形客車からです(一般形としては破格のクーラー付き)。
昭和30年代は年賀状に割引料金が設定されていて、通常のハガキが5円のところ、年賀状は4円になっていた(1965年度を最後に廃止)。そのため、年賀はがきには「年賀状として使わない場合または年賀状の期間外に使う場合は1円切手を貼り足してください」と明記されていた。
空き地(私有地)はたくさんあった勝手に入っても怒られなかったでも中にはバラ線(有刺鉄線)で囲まれていて野球一つするのも命がけだった
こういった画像素材はどうやって手に入れられたのですか?。わたしは、五十年代だけどとても、斬新ですね。今でも残っていて、いい味になった。この時代の人達が今の時代を創ってくれたことは、本当です。尊敬すべきですね。有難うございました🙇🏻
当時は蒸気機関車でしたが、よく鉄橋で遊んでいました長さ300mくらいの長さがありましたね一度も怒られたことはありませんでした
この頃、定期的に「ドブさらい」(下水の清掃)をして、自治体の人が汚泥に白い薬をかけていたなぁ~。(凄い刺激臭が..😅)
昭和30年代、東京通信工業 (現在のソニー) より、トランジスタ回路採用の、ラジオ📻️🔊受信機・テレビ📺️受信機が発売された。従来のラジオ📻️🔊受信機・テレビ📺️受信機の回路は真空管回路仕様の時代。真空管回路は故障がかなり多かったものの、トランジスタの登場で、ラジオ📻️🔊受信機・テレビ📺️受信機の耐久性向上・強化が図られ故障が大幅に少なくなった。
昭和30年代当時、特(別)急(行)列車は文字通り特別な列車で、全席指定が当たり前だった(だから、当時の普通の人々は急行か準急に乗ることが多かった)。1964年の東海道新幹線の開業を機に、「こだま」を皮切りに多くの特急列車に自由席が設けられたが、近年、新幹線などの特急列車の自由席が次々と廃止されて全席指定に戻りつつある(現に、今年(2023年)3月のダイヤ改正で東京―千葉県各地間の特急から自由席が全廃)。
当時は指定席の管理がデジタル化されておらず、乗車券センターが全国各地にあって手作業で帳簿を管理していて駅と乗車券センターが電話で座席手配をやり取りしていたため、電話の聞き違いによる誤発行やダブルブッキングが多かった。座席管理がデジタル化されたのは、主要な駅に「みどりの窓口」が設けられた昭和40年代から。その「みどりの窓口」も、オンライン多機能切符販売機やネット予約にとって代わり、次々と姿を消している。
★自動車保険もまだあんまりないから、被害者は泣き寝入りやで〜😭😭
この頃の道路は、舗装してあるのは国道位で後はでこぼこ道だっただからよく水道管が破裂していてなぜかいい天気なのにとてつもなくデカい水たまりが出来てそこへ子供がはまって大騒ぎになってたのがよくあったな。
皇太子様ご成婚がきっかけで普及したテレビ、まさにでんか製品!おあとがよろしいようで。
昔は不審者がいなかったけど落書きやガラスが割られてた、矛盾だらけの動画
昭和30年代の国産高級車といえば、クラウンかスカイライン、今は無きセドリックとグロリアしか選択肢がなかった。
一応『ベレル』や『デボネア』もありましたよ。
@@toriri-service いすゞベレルは1961年、三菱デボネアは1964年の発売でした。
当時の急速なモータリゼーションに道路行政は全く追い付かず、子供は道路で遊ぶのが当たり前、お年寄りはどこでも横断なんて有様。しかも運転モラルは未成熟で車も衝突安全性の欠片も無いともなれば、解説されているように交通戦争と評される有様も当然というものですね。
昭和36年だかに入居が開始された『公団常盤平団地』は 何故か浴室に洋式便器が設置された『アメリカンスタイル』でした。家族の誰かが入浴中に 他の誰かがトイレに入りたくなったらどうしたんだろう?と思いました。昭和30年代の『電車(客車ではない)』は 自動ドアだから 流石にぶら下がって乗る事はなかったけど 殺人的な混雑で ドアのガラスが中からの圧で押されて弾け飛ぶ事もしょっちゅうで(中央線や常磐線では 昭和50年代になっても『ままある事』だった。営団地下鉄では それを防ぐ為 一時期ドア窓を小型の物にしていた。) ドアも閉まらなくなる等の故障も多く その場合は開きっぱなしのドアにロープを張って ロープの際に駅員さんを立たせて走らせた事もあったそう。地方では 路線によっては通勤通学時に客車が足りないので 有蓋貨車にお客を乗せて 走る事もありました。0:24は 玉電『 ぺこちゃん電車(デハ 200)』の夏の臨時電車ですね。
ぺこちゃん電車は、別名いもむし電車。丸みを帯びたボディの2両連結で、床が非常に低いのが特徴でした。
当時ゎみんな 呼び捨てが普通でした まりさ 霊夢とか 😀 うちわ田舎で貧しかったから 学校終えたら 家の手伝いか 戸外の遊びでしたね😅🤭 野球ボール買う金もないから 布をグルグルまきにして 手製ボールで遊んでましたね🙀😅🤭
食料品価格はいくらでしたか
「1個10円」というケースが多かったように記憶しております。あんパン・ジヤムパンがそうでした。「甘しょく(円錐形のパン)」が2個で10円。郵便料金は、封書が10円、ハガキが5円。ノートや鉛筆も10円。5円の鉛筆もありましたが、「本当に鉛を使っているのでは?」と思うような粗悪品でした。都電が全区間5円。銭湯も5円でしたが、結構頻繁に、1円刻みで値上げしていました。我が家では高級品なため無縁でしたが、『サザエさん』のデータ本によると、当時バナナ1本あたりが30円。その本の刊行時には、あんパンが100円程度で、バナナ1本はほぼ30円で代わらず(輸入が容易になったためでしょう)。完全に逆転しました。
昭和30年代に不審者は居なったなんてことはないですよ。犯罪件数は圧倒的に現代より多く そこら中に不審者はうろうろしていました。まあ警察の取り締まりが緩く 社会が犯罪に対してある程度寛容だったと言う事はあるけどね。
不当な客引きは未だに横行しているんだけどね🌋特に赤羽、新宿三丁目とか
金八先生のパート7(2004年放送)で、保健室にあった性教育用の裸の人形を3Bの生徒が見つけて騒ぎ出し、金八先生が、「今の中学生は自分らの頃と違って銭湯に行った事もなく、他人との裸の付き合いもないから、そんな人形も珍しいんだ」と語ってる場面あった。
家に訪問販売する形式の「押し売り」。遭遇したことはないですが、藤子不二雄や赤塚不二夫の漫画によく出てきたので、子供に対する認知度は高かった、そのステレオタイプは、玄関に座り込んで風呂敷を広げ、強面のオッサンが「おうおう、これ買ってくんな」と主婦にすごんでみせるというもの。商品はゴム紐とかの微妙な日用品。あれって、ほんとにあったのかなあ。
化粧品とかの訪問販売はあったかな。あと最近ないけど、新聞の勧誘ね。
泣き落としで着物の反物を売りつけてくる、上等な生地は最初の数メートル程で残りは着色された紙になっていました。
「サザエさん」や「意地悪ばあさん」には画題として出てきますね。長谷川町子さんは日常を背景に漫画を描かれたそうなので、普通にあったんでしょうね。
@@あい-e4d2q子供の頃、一度だけ家に売りに来たことありました。サザエさんのあのシーンだと、当時まだそんな事あるのかと軽くびっくりした。
道路の穴凹にはシジミの貝殻を捨てていた。昔の機関車で牽引している列車の扉は手動のため冬場凍結して扉が開かなくなっていて焦ったことがある。テレビ📺のプロレスを見るため、お隣やお向いさんと一緒に見ていた。銭湯にはウフフな映画ポスターが貼ってありました。正月2日午前中には朝風呂をやっていました。
つまりインドの文化レベルは日本の昭和30年代...。w 今と違い生きた時代の環境が違うから昔の人はメンタルが鋼ですよね。後に生まれた方が科学や法律など進歩して暮らしやすくなっています。技術や医療も進歩し、安全と健康も格段に良くなっています。しかし、唯一後に生まれる程不幸な点がひとつだけあります。それは今の人類では取り戻せない自然環境です。
自分の父親の時代ですね。父の生まれは東北だったので、確かに道路は舗装されていなかったし、道路も狭く曲り道が多かったと。トンネルもないから歩いて山越えた方が、車で行くより速かったそうです。(帰りはバスで帰る)今はトンネルが出来て、車で直ぐに越えられるけど、もう店が無くなったそうです😢
言葉悪いですが、この当時は何でもありのような時代だった感じですね😣自分だったら、暮らせないですね😅
このチャンネルの他の動画ではモーレツ社員が休まず働いていたなんて話をしてたのにここでは時間に余裕が有ったと言う他にも矛盾がある内容が多いなあ
昭和30年代生まれです😅 子供の頃は道路が未舗装でクルマが通るとホコリが舞い上がり、道路沿いには下水が流れており夕方お風呂の水を抜くと緑色(バスクリンの色)に下水が染まった覚えがある。また、秋になると七輪でサンマを焼く匂いが何処からともなくしてきて良き時代でした✨
その下水(側溝・ドブ)を ドブネズミ🐀💨が突っ走っていた。
ありましたねぇ、バスクリンw。オレンジの粉末なのに、湯に入れると鮮やかな緑になるのが不思議でした。
長生きしてね☺️
風呂の水が緑色なのは当時使われてた入浴剤(むとはっぷ)だと思います。26年生れです。
今ベランダで七輪でサンマ焼いたらソッコーで警察くるよ😓
昭和39年生まれです。
懐かしいです。
当時は社宅に住んでおり、敷地内に銭湯がありました。
幼稚園で友達と遊んで、銭湯でもまた会って楽しかった思い出があります。
当時 道路は未舗装で水たまりがたくさんあった。
冬は凍っていました。
今は清潔にはなったが、度が過ぎて潔癖になったとも言える。あの頃とどちらがいいのか………。
昭和30年代の懐かしい動画を有難う御座います。私は東京に住んでいましたが、当時は空襲で焼けたビルなどが撤去され復興が始まりました。急激に自動車が増え道交法の整備が追い付かなかったので銀座尾張町交差点など交通の要衝では、信号機が有っても警察官が台の上に立って交通整理をしていました。神風タクシーと言えば、ある魚屋さん自慢の優秀な東大生の御子息と慶応大医学部の留学をひかえていた優秀な研修医がひかれて亡くなり、新聞に大きく報道されて社会問題化されました。当時は電車の車両数が足りなかったので、冷房のない国電に通勤客を押し屋の大学生アルバイトが毎朝押し込んでいました。また都電が大きな交通機関で渋谷・池袋間の早朝便は国鉄山手線より速かったです。当時のベッドタウンと言えば世田谷区で渋谷と二子玉川園間を東急の路面電車が結んでいました。団地と言えば世田谷区に大蔵省、日銀、警察庁などの家電や家具付き官舎村が有りました。都バスが官舎村と省庁を結んでいました。戦後に旧陸海軍研究所から国鉄の鉄道技術研にうつった優秀なエンジニアたちが高速鉄道の将来性を見抜き30年に銀座で、東京・大阪3時間の可能性という講演会を開いたり、33年には南極観測船宗谷が分厚い氷で接近不可能と言われていた海岸に到達して、見事な昭和基地が日本古来の木組み技術で完成したりと、敗戦国と人種差別で欧米に見下されていた日本が一歩ずつ確実に前進を始めました。当時の大学入試は共通一次試験が無く、例えば東工大は数学、物理、化学、英語だけの試験でしたが、出題範囲は高校教育に限定されなかったので、特に博士号まで狙う生徒は小学生時代から登校無視で大学図書館に籠り、独学で大学の学問を学びました。また思考の基盤は日本語力なので、小学校入学前から岩波文庫の文学と哲学書を読みました。その中で私はファーブル昆虫記に出会い生物研究者を志し、高校時代に生命現象とは膨大な数の有機学反応の集積である、と悟ってまだ勃興期だった生命科学に進路変更しました。高校では第2外国語教育が有ったので半分くらい登校しました。当時の高校は土曜日の午後も6限目まで授業があり、長期休暇も短かったです。高校で古典にふれた事で、日本文化は分厚く欧米に負けない価値を持つが日本語環境の中でしか生きられない、日本人は豊かな文化を子孫に継承するためには、古典文化の習得には科学技術発展のための理系科目と同等の価値が有ると勉強しました。
当時は優しさと親切などが若い女性のトレードマークでした。彼女達は価値観や道徳、常識などがしっかりしていて心が綺麗だったのでそれが外面に出て美人で魅力的な方が多かったです。何も無い時代だったので、人々は心や物を大切にしていました。また色々と生活に工夫をしていました。特に女性の言葉遣いが綺麗で、きちんと礼儀正しくものが言えました。若い女性は朝起きて、顔を洗うだけで綺麗なのが美人の基準でした。現代に至るまで多くの失敗の教訓や教育、社会の整備で良くなった面も多いですが、豊かになって物質主義や拝金主義がはびこり、人のため、日本社会のための努力など失われた良い面の方が大きいと感じます。
渋谷と二子玉川を結んでいたのは東急玉川線で、丸みを帯びたフルモノコック構造で床が低いため「イモムシ電車」と呼ばれたデハ200形電車が主力でした(1969年5月11日に廃止)。
@@pastelpureakgjze5791 お返事有難う御座います。世田谷区は自転車で回れたので多摩川線は利用した事が余りありません。当時の世田谷区には良い古書店が多く、思いがけない全集が手に入ったりして助かりました。二子玉川園近くにはカルメル会、ドミニコ会、サレジオ会などの修道院と教会が多く、クリスマスバザーでも思わぬ掘り出し物が有りました。
私は1963年生まれですが、1964年の東京オリンピック当時、近所のテレビのない家の人が、我が家にオリンピックを見に来ていたと私の母が言っていました。1964年当時でもテレビのない家庭があったんですね。
今の時代にアパートのベランダで七輪で魚焼いたらソッコーで警察がくる時代だよ😓
押し売りは昔のサザエさんでしょっちゅう出てたw
大雑把に世の中というか人間そのものが時が経つにつれて良くなってゆくのなら……今を生きる私たちを後世の方々から見れば何とも愚かで野蛮に思えるでしょうなあトホホ……。
昭和31年生まれの母は近所のお巡りさんが夜にパトカーで自宅によく遊びに来て普通に制服のまま酒飲んでw弾丸を抜いた拳銃を
当時5歳の母に持たせてあげたりめちゃくちゃだったwらしい で飲酒運転で派出所に戻るのw
『天才バカボン』の 目ん玉つながりのお巡りさん並ですね。
今の時代にそんなことをすればその警察官は、ただでは済みませんね!
@@MrSpringman73 弾1発なくしただけで新聞記事になる国。
ヘルメット無しでバイクいたね。今の自転車にヘルメットの婆さんみると和むわ😊
昭和30年代の電車は自動ドアがほぼ普通になっていたので、ぶら下がって乗車するのは客車列車ですね。
『和田岬線』なんか 客車列車の最後期の平成前期の頃でもまだやってましたよ。
客車のドアが自動になったのは、1969年に万博対策として登場した12系一般形客車からです(一般形としては破格のクーラー付き)。
昭和30年代は年賀状に割引料金が設定されていて、通常のハガキが5円のところ、年賀状は4円になっていた(1965年度を最後に廃止)。そのため、年賀はがきには「年賀状として使わない場合または年賀状の期間外に使う場合は1円切手を貼り足してください」と明記されていた。
空き地(私有地)はたくさんあった勝手に入っても怒られなかった
でも中にはバラ線(有刺鉄線)で囲まれていて野球一つするのも命がけだった
こういった画像素材はどうやって手に入れられたのですか?。
わたしは、五十年代だけどとても、斬新ですね。
今でも残っていて、いい味になった。
この時代の人達が今の時代を創ってくれたことは、本当です。
尊敬すべきですね。
有難うございました🙇🏻
当時は蒸気機関車でしたが、よく鉄橋で遊んでいました
長さ300mくらいの長さがありましたね
一度も怒られたことはありませんでした
この頃、定期的に「ドブさらい」(下水の清掃)をして、自治体の人が汚泥に白い薬をかけていたなぁ~。
(凄い刺激臭が..😅)
昭和30年代、東京通信工業 (現在のソニー) より、トランジスタ回路採用の、ラジオ📻️🔊受信機・テレビ📺️受信機が発売された。従来のラジオ📻️🔊受信機・テレビ📺️受信機の回路は真空管回路仕様の時代。真空管回路は故障がかなり多かったものの、トランジスタの登場で、ラジオ📻️🔊受信機・テレビ📺️受信機の耐久性向上・強化が図られ故障が大幅に少なくなった。
昭和30年代当時、特(別)急(行)列車は文字通り特別な列車で、全席指定が当たり前だった(だから、当時の普通の人々は急行か準急に乗ることが多かった)。1964年の東海道新幹線の開業を機に、「こだま」を皮切りに多くの特急列車に自由席が設けられたが、近年、新幹線などの特急列車の自由席が次々と廃止されて全席指定に戻りつつある(現に、今年(2023年)3月のダイヤ改正で東京―千葉県各地間の特急から自由席が全廃)。
当時は指定席の管理がデジタル化されておらず、乗車券センターが全国各地にあって手作業で帳簿を管理していて駅と乗車券センターが電話で座席手配をやり取りしていたため、電話の聞き違いによる誤発行やダブルブッキングが多かった。座席管理がデジタル化されたのは、主要な駅に「みどりの窓口」が設けられた昭和40年代から。その「みどりの窓口」も、オンライン多機能切符販売機やネット予約にとって代わり、次々と姿を消している。
★自動車保険もまだあんまりないから、被害者は泣き寝入りやで〜😭😭
この頃の道路は、舗装してあるのは国道位で後はでこぼこ道だった
だからよく水道管が破裂していてなぜかいい天気なのにとてつもなく
デカい水たまりが出来てそこへ子供がはまって大騒ぎになってたのが
よくあったな。
皇太子様ご成婚がきっかけで普及したテレビ、まさにでんか製品!おあとがよろしいようで。
昔は不審者がいなかったけど落書きやガラスが割られてた、矛盾だらけの動画
昭和30年代の国産高級車といえば、クラウンかスカイライン、今は無きセドリックとグロリアしか選択肢がなかった。
一応『ベレル』や『デボネア』もありましたよ。
@@toriri-service いすゞベレルは1961年、三菱デボネアは1964年の発売でした。
当時の急速なモータリゼーションに道路行政は全く追い付かず、子供は道路で遊ぶのが当たり前、お年寄りはどこでも横断なんて有様。しかも運転モラルは未成熟で車も衝突安全性の欠片も無いともなれば、解説されているように交通戦争と評される有様も当然というものですね。
昭和36年だかに入居が開始された『公団常盤平団地』は 何故か浴室に洋式便器が設置された『アメリカンスタイル』でした。
家族の誰かが入浴中に 他の誰かがトイレに入りたくなったらどうしたんだろう?と思いました。
昭和30年代の『電車(客車ではない)』は 自動ドアだから 流石にぶら下がって乗る事はなかったけど 殺人的な混雑で ドアのガラスが中からの圧で押されて弾け飛ぶ事もしょっちゅうで(中央線や常磐線では 昭和50年代になっても『ままある事』だった。営団地下鉄では それを防ぐ為 一時期ドア窓を小型の物にしていた。) ドアも閉まらなくなる等の故障も多く その場合は開きっぱなしのドアにロープを張って ロープの際に駅員さんを立たせて走らせた事もあったそう。
地方では 路線によっては通勤通学時に客車が足りないので 有蓋貨車にお客を乗せて 走る事もありました。
0:24は 玉電『 ぺこちゃん電車(デハ 200)』の夏の臨時電車ですね。
ぺこちゃん電車は、別名いもむし電車。丸みを帯びたボディの2両連結で、床が非常に低いのが特徴でした。
当時ゎみんな 呼び捨てが普通でした まりさ 霊夢とか 😀 うちわ田舎で貧しかったから 学校終えたら 家の手伝いか 戸外の遊びでしたね😅🤭 野球ボール買う金もないから 布をグルグルまきにして 手製ボールで遊んでましたね🙀😅🤭
食料品価格はいくらでしたか
「1個10円」というケースが多かったように記憶しております。あんパン・ジヤムパンがそうでした。「甘しょく(円錐形のパン)」が2個で10円。郵便料金は、封書が10円、ハガキが5円。ノートや鉛筆も10円。5円の鉛筆もありましたが、「本当に鉛を使っているのでは?」と思うような粗悪品でした。都電が全区間5円。銭湯も5円でしたが、結構頻繁に、1円刻みで値上げしていました。
我が家では高級品なため無縁でしたが、『サザエさん』のデータ本によると、当時バナナ1本あたりが30円。その本の刊行時には、あんパンが100円程度で、バナナ1本はほぼ30円で代わらず(輸入が容易になったためでしょう)。完全に逆転しました。
昭和30年代に不審者は居なったなんてことはないですよ。犯罪件数は圧倒的に現代より多く そこら中に不審者はうろうろ
していました。まあ警察の取り締まりが緩く 社会が犯罪に対してある程度寛容だったと言う事はあるけどね。
不当な客引きは未だに横行しているんだけどね🌋特に赤羽、新宿三丁目とか
金八先生のパート7(2004年放送)で、保健室にあった性教育用の裸の人形を3Bの生徒が見つけて騒ぎ出し、金八先生が、「今の中学生は自分らの頃と違って銭湯に行った事もなく、他人との裸の付き合いもないから、そんな人形も珍しいんだ」と語ってる場面あった。
家に訪問販売する形式の「押し売り」。遭遇したことはないですが、藤子不二雄や赤塚不二夫の漫画によく出てきたので、子供に対する認知度は高かった、そのステレオタイプは、玄関に座り込んで風呂敷を広げ、強面のオッサンが「おうおう、これ買ってくんな」と主婦にすごんでみせるというもの。商品はゴム紐とかの微妙な日用品。あれって、ほんとにあったのかなあ。
化粧品とかの訪問販売はあったかな。
あと最近ないけど、新聞の勧誘ね。
泣き落としで着物の反物を売りつけてくる、上等な生地は最初の数メートル程で残りは着色された紙になっていました。
「サザエさん」や「意地悪ばあさん」には画題として出てきますね。長谷川町子さんは日常を背景に漫画を描かれたそうなので、普通にあったんでしょうね。
@@あい-e4d2q子供の頃、一度だけ家に売りに来たことありました。サザエさんのあのシーンだと、当時まだそんな事あるのかと軽くびっくりした。
道路の穴凹にはシジミの貝殻を捨てていた。
昔の機関車で牽引している列車の扉は手動のため冬場凍結して扉が開かなくなっていて焦ったことがある。
テレビ📺のプロレスを見るため、お隣やお向いさんと一緒に見ていた。
銭湯にはウフフな映画ポスターが貼ってありました。正月2日午前中には朝風呂をやっていました。
つまりインドの文化レベルは日本の昭和30年代...。w
今と違い生きた時代の環境が違うから昔の人はメンタルが鋼ですよね。
後に生まれた方が科学や法律など進歩して暮らしやすくなっています。
技術や医療も進歩し、安全と健康も格段に良くなっています。
しかし、唯一後に生まれる程不幸な点がひとつだけあります。
それは今の人類では取り戻せない自然環境です。
自分の父親の時代ですね。父の生まれは東北だったので、確かに道路は舗装されていなかったし、道路も狭く曲り道が多かったと。トンネルもないから歩いて山越えた方が、車で行くより速かったそうです。(帰りはバスで帰る)今はトンネルが出来て、車で直ぐに越えられるけど、もう店が無くなったそうです😢
言葉悪いですが、この当時は何でもありのような時代だった感じですね😣自分だったら、暮らせないですね😅
このチャンネルの他の動画では
モーレツ社員が休まず働いていたなんて話をしてたのに
ここでは時間に余裕が有ったと言う
他にも矛盾がある内容が多いなあ